こんにちは。
「怒られなくても、ひとりで勉強ができるようになる教室」トレッペ教室長の内海哲平です。
トレッペの得意なことは、「勉強を好きになってもらうこと」「毎日継続して自主学習できるようにすること」「ずっと昔につまずいたところを見つけること」です。
このブログは毎週火曜日(プラス気が向いた日)に更新されます。
よかったらのぞいてみてくださいね。
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引き続き歴史学者の久野先生から、「織田信長はこんな人」というお話です。
大人が読んでもとっても勉強になります(^^♪
「織田信長」の正式な呼び方なんて、ぼくは知りませんでしたよ\(◎o◎)/!
はたして織田信長って本当はどう呼ぶのが正しいのか?
気になった方はぜひどうぞ♪
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皆さんは“織田信長”というと、どのような人を思い浮かべるでしょうか。
“時代の革命児”とかK1の元選手やロックのビリー・アイドルのように“反逆のカリスマ”というイメージを、きっとお持ちのことと思います。
その理由の一つとして、信長が大好きだった言葉に“天下布武”というキャッチコピーがあるからだと思います。
“天下布武”とは“天下に武を布く”ことで、
つまりは“天下”=日本全国を武力で制圧する=“天下統一”を目指して、数多くの戦国大名と合戦をしました。
しかし歴史の研究が進んで、実は当時の“天下”は“日本全国”ではなく、京都を中心とした畿内だったことが分かりました。
そうすると、信長は“日本全国を統一”するのではなく、本当は畿内を平定することを目標にしていたことになります。
京都周辺はもともと、室町幕府の足利将軍が支配している地域だったため、
信長は幕府を倒して新しい政治体制を築こうとした“革命児”ではなく、本当は幕府を作り直そうとしていたことが分かってきました。
ちょうど信長が活躍していた時代は、鎌倉時代・室町時代の中世と、江戸時代の近世の間になります。
信長が実際には“革命児”ではなくもともとの政治体制を重んじた政治家とした場合、
では一体誰が近世の新しい政治体制を創ったのでしょうか。
それは、もともと信長の家臣でその跡を引き継いだ豊臣秀吉だと考えられています。
ではなぜ秀吉は“革命”を起こすことができたのでしょうか。
それは、秀吉が生まれ育った環境によると考えられそうです。
信長は武家の出身で、武家社会の秩序やしきたりを生まれながらにして身につけていました。
しかし秀吉は農民の出身なので、そのような“縛り”がなく、自由に育ちました。
ですので、どうやら信長は自分が生まれ育って身につけていた“しきたり”を変えることができなかった。
それに比べて秀吉は自分が思ったことを何の“しがらみ”もなく、自由にのびのびと政治改革を断行することができた。
このように考えることができそうです。
ちなみに“織田信長”=おだのぶなが の正式な呼び方は“おたのぶなが”が正しくて、
“豊臣秀吉”は“とよとみのひでよし”が正しいんですよ。
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以上、久野先生より「織田信長はこんな人」でした。
ちなみに久野先生は織田信長のことを専門的に研究されていて、
『足利義昭と織田信長(中世武士選書40)』という本も出版されています。(戎光祥出版)
詳しく知りたい人は直接久野先生に聞いてみてください。
大学がお休みのシーズンはトレッペで会えるかも知れませんヽ(^。^)ノ
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